甚大被害の蔵「瑞鷹」の復旧

2019年05月01日

 【熊本】軽微な被害が激甚へと変わった、4月16日午前1時25分マグニチュード7・3熊本地震「本震」から3年。清酒や赤酒、焼酎の醸造元で100棟超のうち7割が被災したのが瑞鷹(熊本市南区川尻、吉村浩平社長)だった。特に大型の木造建物、土蔵造りの建物の損傷が甚大で、製品・半製品の破損・流出・廃棄は14万l(1升瓶換算約7万8000本=約800石)を超えた。在りし日の酒蔵へと復元を求める声も強かったが、建替新設という苦渋の決断が迫られ、それでも「川尻本蔵」本社事務所棟は大規模修理で往時の品格ある佇まいを取り戻し、復興途上の人々を勇気づけるシンボルとなっている。酒蔵はまちそのものだからだ。

 熊本県酒造組合連合会は、熊本酒造組合(13社/清酒10・単式蒸留焼酎3)、球磨焼酎酒造組合(単式蒸留焼酎28社)=2018年6月現在=で構成されている。県南に蔵元が集積する「球磨焼酎」醸造蔵に被害は無かった。

 瑞鷹以外に、県内の清酒醸造元4社の被害が甚大だった。

 香露(熊本県酒造研究所=熊本市中央区島崎)の煙突は倒壊。発祥の「熊本酵母」が危機だというデマがSNS等で拡散した。美少年(美少年=菊池市)は製造再開のメドが立たない状況。通潤(通潤酒造=上益城郡山都町)は寛政4(1792)年建造、県内酒蔵で最も古い「寛政蔵」が大規模損壊した。れいざん(山村酒造=阿蘇郡高森町)の被害も少なくなかった。

 3年を経て5蔵とも製造・販売両面で復旧している。大きな役割を果たしたのが復興支援のグループ補助金「グループ施設等復旧整備補助事業」で今年3月期限切れとなり、一つの区切りとなった。グループ補助金対象事業を残すのは瑞鷹のみで、それも来年3月までだ。

 グループ補助金は被災被害があった施設と設備を対象に、復旧事業費の4分の3(国1/2、県1/4)を補助金拠出するもの。熊本酒造組合復興グループ(11者、代表=瑞鷹)の属性は“地域の基幹産業集積型”「共通して用いる熊本酵母はその優れた醸造特性により全国の酒蔵で用いられ、熊本県が全国でも屈指の銘醸地であることを証明している」として申請した。地震発生2016年の9月に交付決定した。

 当時から修正変更等があり、▽被害額=6億1686万円(施設4億3486万円+設備1億8200万円)▽事業費12億3386万円▽補助金申請予定額=9億2505万円--となっている。原則、補助金は後払い。実際に工事等が行われ決済後に支払われる。

 ちなみに東日本大震災の際、宮城県では酒造組合員16社が申請。15億7千万円の事業費で、11億8千万円の補助金を受けている。

 来年3月末を期限とする瑞鷹へのグループ補助金は、国の平成30年度第2次補正予算に盛られた中小企業等グループ補助金「中小企業組合等共同施設等災害復旧事業」119億8000万円の一環。

 同社の事業費は約6000万円。すでに酒類製造面では復旧しており、将来的に観光誘客にも資するだろう建物「マスダイ蔵」と「記念蔵」の修理復旧などが行われることになりそうだ。

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 熊本国税局主催、平成31年酒類鑑評会(今年4月16日表彰式)で瑞鷹が出品した熊本酵母吟醸酒は優等賞を受賞。さらに本格麦焼酎も同賞を受賞した。そのことが「とても嬉しい」と同社の吉村朋晃・代表取締役専務は話す。熊本地震後、清酒製造は1酒造期も休止しなかったが、焼酎の方は復旧の優先順位で休止を余儀なくされていた。それが製造再開となり出品した初の鑑評会だったからだ。

 地震後に製造再開と商品供給が急がれたのは赤酒(あかざけ、同社ブランド「東肥赤酒」)だった。製造不能に伴う欠品や供給不安、さらに風評もあり大口顧客の流出、売上減の危機にさらされ続けた。

 同社は2つの酒造場を有す。「川尻本蔵」(清酒製造=川尻4丁目6番67号)と、700mほど離れた「東肥蔵」(赤酒・焼酎製造=川尻1丁目3番72号)。当時の製成量は清酒約1300石、赤酒約5000石、焼酎約700石。

 歴史をさかのぼれば熊本で酒といえば、灰(あく)持ち酒の赤酒だった。幕藩体制下、肥後細川藩が製造を認めたのは“御國酒”の赤酒で、他藩の清酒等は“旅酒”と称し流入が禁じられていた。

 酒税法上は雑酒。原料はうるち米で併行複醗酵、酵母は熊本酵母で製造工程はほとんど清酒と同じだが、醪期間が長期にわたり、保存性を高めるため醪に木灰を入れ酸性から微アルカリ性に変える点、糖分やアミノ酸が反応し赤褐色を帯びる点で異なる。

 屠蘇酒としての愛飲はもとより、全国の調理人から代替は利かないと求められる熊本固有の伝統酒。今も熊本の酒食文化において重要なもの。そして同社の基幹商品だ。

 うなぎ蒲焼のタレづくりなど料理に欠かせないほか、タレ商品などの原材料として、また食品の調味素材として使われるなど業務用が8割を占める。待ってもらえない事情があり、違約金発生の恐れでも苦しんだ。再開のメドが立たないと「在庫をまとめてくれ」と取りつけのようなことにもなった。関東では「もう赤酒はダメだろう」との風評が流れた。最優先で復旧が急がれ、製品倉庫を製造場に転用するなどでしのいだ。今は施設の建替えが完了し製造に問題はないが、一度失った顧客は完全には戻っていない。

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 熊本の清酒の歴史が始まるのは明治。「当時の県内の酒造業界は、西南戦争による県外清酒の流入により、赤酒の歴史から清酒へと苦難の転換期を迎えていた。江戸時代は赤酒の製造しか許されず長年の赤酒製造に馴染んできた技術では、良質の清酒を造ることは事実不可能であった」(日本醸造協会誌・平成元年12月号、「香露」熊本県酒造研究所・萱島昭二氏=故人)。

 明治の初め、ほとんどが赤酒(灰持ち酒)だった時代、火入れ殺菌で保存性を高める清酒(火持ち酒)を造ったのは、熊本県に現存する蔵元としては瑞鷹が一番早かった。創業者吉村太八氏、二代目彦太郎氏へと清酒醸造の情熱が連綿と継がれる。1887(明治20)年には兵庫県の丹波杜氏を招き指導を仰いだ。そして1909(明治42)年、瑞鷹製造場の一部に酒造工場を新設提供し、後年酒の神様と称される野白金一氏を迎え「熊本県酒造研究所」が設立された。正式発足は大正7年。

 野白氏は、元は熊本税務監督局(現熊本国税局)鑑定部長。野に下り大改革をけん引した。熊本酵母(協会9号酵母)の培養、二重桶方式(サーマルタンクの元)、野白式天窓、袋吊り法など吟醸酒造りの礎を築いた。“YK35”は全国新酒鑑評会「金賞」受賞の方程式となった。35=精米歩合35%のY=山田錦を、K=熊本酵母で仕込むこと。萱島氏が示した発酵管理の目安“B曲線”も知られた。

 瑞鷹は昭和5年、全国酒類品評会において「出品3900余点中第1位を以て優等賞を受賞。さらに3回連続優等賞受賞の実績により名誉大賞を授けられた」。

 創業は1867年(慶応3年)。地震の翌年150周年を迎えた。

 清酒蔵「川尻本蔵」は四季醸造蔵の先駆け。鉄筋コンクリート造りで木造土蔵ほどの損壊はなく、清酒製造場を失うことは免れた。しかし搾った酒や瓶詰商品の貯蔵場確保が課題で、それも建替新設「平成大蔵」の完成で解決している。

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 震災直後から今日に至るまでを吉村専務に聞いた。生業(なりわい)の継続に係る岐路からのことだ。

 --グループ補助金が無ければ復興への歩みは難しかったのか。

 社内で議論する中、補助金があるなら復旧復興が出来る。なければ会社の存続自体、どうなるのかという状況だった。全体を復旧させるには少なくとも8億円かかる。うち6億円が補助金で賄えるならば2億は自社で手当てしようということで始まった。実際やってみるとプラスアルファ、復旧ではない部分とか、補助金では出ない部分、例えばフェンスとか工事に伴う地盤整備とか、また後で機械に不具合が出てくるとかでプラス1億5千万から2億ぐらいかかってくるような感じだった。だから全部で10億円ぐらいが必要。グループ補助金事業費申請は8億6千万円だから1億5千万円ぐらいは補助金以外、自己負担・自己資金でやらなければいけない。

 --3年経って進ちょくは。

 90%。

 --残り10%。

 補助金をいただけないところ、地面整備とか補助金対象に入れなかった建屋とか。地震のあとにだんだん傷んできた建物もあるから。

 --本社も元通りになり、製造設備も赤酒・清酒・焼酎でフル復旧と言っていい。

 フル復旧と言っていい。

 --出荷は。

 熊本地震で赤酒は出荷が出来ず落ち込んだ。清酒は応援需要で増えたが、元の下るカーブに戻ってきている。赤酒はまだ元の水準にまで戻っていない。

 --次代へつなぐ“創造的復興”が言われているが。

 (被害の)規模が大き過ぎて頭が回らず、まずは元の水準に戻すということで来た。例えば工場のビン詰め等は敷地内で移設したが、ラインはそのまま。動線が悪くなったが、それが精一杯だった。あと2、3千万円手出しができればそういうことはなかったかもしれないが。

 --地震被災の教訓で、事前に備えておくことがあるか。

 製造業すべてに言えるが、他所で造ることをどう考えておくか。人も原材料もそちらに持って行って自社商品を造る。県外の蔵元さんと予めそういう話をしていくとか。

 --テイスティングが出来る小売販売場も新設した。

 バスも入れる駐車場を整備し、国指定・細川藩の史跡などとも連動し、試飲・資料館・うなぎ料理店を歩いて周遊できるような観光につなげることが出来れば。出来れば年内に。