東海大セミナー 「瑞鷹」復興への道

2016年08月10日

 【熊本】「東海大学」現代教養センター「『食』の文化と経済学研究室」(新田時也・准教授)が7月29日、熊本市のびぷれす熊日会館で六次産業推進セミナー“熊本地震から立ち上がった老舗酒蔵「瑞鷹(ずいよう)~被災「赤酒」復旧プロジェクト~”(講師=瑞鷹㈱<熊本市南区川尻>常務取締役・吉村謙太郎氏)を開催した。

 セミナーは同大総合研究機構から一部補助を受け実施。熊本をフィールドに特産品開発などを通じ観光振興や地域活性化を目指す、月1回開催の公開シンポジウムだ。六次化推進の核として酒類・酒蔵を取り上げ続けている。瑞鷹は清酒「瑞鷹」や本格焼酎、それに「東肥『赤酒』」の醸造元だ。建物被害が甚大で赤酒の製造出荷が危ぶまれたが、6下旬から7月上旬にかけ出荷を再開した。

 赤酒は酒税法上では雑酒。製法では「灰持酒(あくもちざけ)」に区分される。原料はうるち米で併行複醗酵、酵母は熊本酵母。製造工程も清酒とほとんど同じだが、醪期間は長期にわたり、保存性を高めるため醪に木灰を入れ酸性から微アルカリ性に変える点、糖分やアミノ酸が反応し赤褐色を帯びる点で異なる。

 屠蘇酒としての愛飲はもとより、全国の調理人から代わりはないと求められる熊本固有の伝統酒。熊本の酒・食文化において大きな位置を占め、震災以降は特に復興の歩みと重ねクローズアップされている。

 同社にとっては年間に約5000石を出荷する基幹商品。料理用のほか、「モランボン」や「なだ万」のたれ商品などの原材料として供給するなど業務用が出荷量の8割を占める。

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 「4月14日の前震、16日の本震、その後の余震で建物が崩壊した。6月の雨も追いうちをかけた。梁は素晴らしくそのままだが、瓦と白壁が落ち危険な状態で立っている」(瑞鷹吉村常務)。蔵元の創業は1867年(慶応3年)。来年150周年を迎えるため「創業記念事業の計画を立てようとしていた」。

 2つの酒造場がある。「川尻本蔵」(清酒製造=川尻4丁目6番67号)と、700mほど離れた「東肥蔵」(赤酒・焼酎製造=川尻1丁目3番72号)。

 川尻本蔵の界隈は通称“瑞鷹通り”と呼ばれ、瑞鷹本社・同倉庫(旧大嶋屋醤油店)・当主邸宅が熊本市の景観重要建造物に指定されている。西南戦争の際には西郷隆盛率いる薩軍が本営を構えたいわれもある。復旧では通りに面す事務所について「川尻のランドマークでもあり外観を残す」考えだ。

 熊本の清酒の歴史は、西南戦争以降にはじまる。灰持酒ではなく、火入れ殺菌で保存性を確保する清酒「火持酒(ひもちざけ)」を造ったのは現存の蔵元としては同社が熊本県で一番早かったという。

 明治の初め、熊本の酒がほとんど赤酒であった時代、創業者吉村太八氏が清酒の製造に挑んだ。「当時の県内の酒造業界は、西南戦争による県外清酒の流入により、赤酒の歴史から清酒へと苦難の転換期を迎えていた。江戸時代は御國酒(おくにざけ)として赤酒の製造しか許されず、長年の赤酒製造に馴染んできた技術では、良質の清酒を造ることは事実不可能であった」(日本醸造協会誌・平成元年12月号<「香露」醸造元・熊本県酒造研究所<熊本市中央区島崎>萱島昭二氏)。

 新たな歴史を拓いたのが“酒の神様”野白金一氏だった。明治39年、熊本税務監督局(現熊本国税局)の鑑定部長に就任。大改革をけん引することになる。明治42年、瑞鷹製造場の一部に酒造工場を新設提供することで、熊本県酒造研究所を設立(大正7年、現在地で正式発足)。野白氏を迎えた。昭和5年、瑞鷹は大蔵省主催第12回全国酒類品評会において「出品3900余点中第1位を以て優等賞を受賞。さらに3回連続優等賞受賞の実績により名誉大賞を授けられた」(同社)。吉村常務は「熊本の清酒の発展は熊本県酒造研究所をつくるところから始まった」と振り返った。

 その後、酒の需要は清酒へと傾き、赤酒は第二次大戦中の製造禁止を経て市場から消えた。それが戦後、製造再開待望の声に押され復活したのだった。今回の震災で再び、存亡の危機に見舞われた。

 赤酒を製造する東肥蔵の建物損傷は凄まじかった。4月は焼酎の製造に入っていたことから1次2次仕込み合わせタンク10本分の醪を失った。「酒の被害としては実は一番大きかった」。

 製造再開の優先順位は赤酒だった。地元だけでなく全国の料理人にとって調理に欠かせないもの。「有難いことに無くなったら困るの声が大きかった」。タレ商品や弁当にも使われ、供給を滞らせることは築いた販路すべてを失うことを意味した。
 製品倉庫を製造棟へ転用。難題だった搾り機の移動も克服し製造出荷の再開にこぎ着けた。「3カ月で復活することが出来たのが大きかった。これが1年後なら、営業も1から。すべてパーになっていた」。

 被災から立ち上がる姿が多くのメディアで大々的に取り上げられ話題となったことが、赤酒の存在価値や魅力、使い方などをあらためて伝える契機になった、とも。素材を締めない調理での効用や、お屠蘇に欠かせない酒であること、赤酒を使うご当地カクテル「赤酒ジンジャー『ROKKA』」「熊本ハイボール」など飲み方提案の発信にもつながった。

 「お正月のお屠蘇には絶対間に合わせる」。そんな思いも復旧へのモチベーションを高めた。例年10月以降、需要が集中するだけに出荷に支障が出ないよう気を引き締める。

 質疑応答では「赤酒でつながる仕掛けをフェイスブックやツイッターでやれば」との提案も。「復興への歩みを見える形で表現してほしい」「戦争や災害を観光化するダークツーリズムにもなれば」との意見もあった。吉村常務は1995年(平成7年)阪神淡路大震災で甚大な被害に遭いながら復活した灘の蔵元へ赴き、自社の復興計画へ反映させる考えを示した。グループ補助金への期待を問われ「ただ元に戻すというのではなく将来像を描き、そのなかで補助金を活かすことができれば」と答えた。復興と、熊本酒造の伝統を守ることは不可分だ。「長くやればこういうこともある。それをこれまでも乗り越えてきたはず」と、先達がやってきたように社業を次代へつなぐ覚悟を言葉にした。