瑞鷹 新蔵(貯蔵庫)建設へ、復興プランの一環

2017年10月30日

 【熊本】「やっと始まったという感じ」。瑞鷹(ずいよう、熊本市南区川尻、吉村浩平社長=熊本県酒造組合連合会会長)の常務取締役・吉村謙太郎さんは本音をもらした。熊本地震から1年半。グループ補助金「熊本県中小企業等グループ施設等復旧整備補助事業」を活用した施設の復旧工事は進行しているが先は長く“施設復旧”と“事業復興”との隔たりにジレンマを抱える。何しろ100棟超のうち7割が被災。補助金拠出は個別施設の復旧に限られ、別地で新蔵を建設したり、酒蔵施設全体を見直す総合プランを立てるようなことは難しいからだ。それでも復旧した建物を活かし試飲バーに改装する案など将来構想も見え始めた。「乗り越えながら生まれてきた絆」はかけがえのないもの。助けていただいた恩を、より良い酒を醸すことで返す決意に揺るぎはない。

 同社は2つの酒造場を有す。「川尻本蔵」(清酒製造=川尻4丁目6番67号)と、700mほど離れた「東肥蔵」(赤酒・焼酎製造=川尻1丁目3番72号)。製成量は清酒約1300石、赤酒約5000石、焼酎約700石。清酒と赤酒の製造は再開しているが、焼酎の製造は行っていない。

 熊本地震本震、平成28年4月16日深夜、蔵に駆けつけた吉村さんは頑強な扉を破り冷蔵貯蔵庫から酒が飛び出ている、有り得ない光景を目の当たりにして「終わったと感じた」。

 建物被害は、大小合わせ100棟のうち7割に及んだ。「特に大型の木造建物、土蔵造りの建物の損傷が甚大で6棟が全壊、8棟が大規模半壊」。製品・半製品の破損・流出・廃棄は14万l(1升瓶換算約7万8000本=約800石)を超えた。「設備損壊、建物損壊により現在も、一部商品の製造は不能」だ。

 失うものが無くなって開き直り、そのことが復興の歩を進めると思われたが追い打ちが続いた。前震本震以降、昨年10月までに4千回超の余震。加え大雨で土蔵の被害が拡大した。「業者不足により取り壊しや修理が進まない。修理予定だったものが余震や大雨で建替えが必要になり計画が度々変更。消防法や建築基準法など建替えのハードルもある。建物不足で貯蔵・保管場所が確保できない。売上減のなかどこまで投資すべきか不透明…」。

 製造不能に伴う欠品や供給不安、さらに風評もあり大口顧客の流出、売上減の危機にさらされ続けた。「清酒は心で繋がっているから待ってくれた」。猶予が許されなかったのは赤酒(あかざけ)の方だった。

 もともと熊本で酒といえば、灰(あく)持ち酒の「赤酒」だった。幕藩体制下、肥後細川藩が製造を認めたのは御國酒としての赤酒で、他藩の酒は旅酒と称し流入が禁じられていた。

 酒税法上は雑酒。原料はうるち米で併行複醗酵、酵母は熊本酵母で製造工程はほとんど清酒と同じだが、醪期間が長期にわたり、保存性を高めるため醪に木灰を入れ酸性から微アルカリ性に変える点、糖分やアミノ酸が反応し赤褐色を帯びる点で異なる。

 屠蘇酒としての愛飲はもとより、全国の調理人から代替は利かないと求められる熊本固有の伝統酒。熊本の酒・食文化において大きな位置を占める。

 同社にとっては年間に約5000石を出荷する基幹商品。うなぎ蒲焼のタレづくりなど料理に欠かせないほか、タレ商品などの原材料として、また食品の調味素材として使われるなど業務用が8割を占める。待ってもらえない事情があり、違約金発生の恐れでも苦しんだ。再開のメドが立たないと「在庫をまとめてくれ」と取り付けのようなことにもなった。関東では「もう赤酒はダメだろう」との風評が流れた。最優先で復旧が急がれ、製品倉庫を製造場に転用するなどでしのいだ。「東肥蔵」では現在、全壊した製造棟の復旧工事が進められている。

 支えたのは人だった。東北をはじめ同業者から多額の見舞金が贈られた。人的支援にも助けられた。全国の酒屋や飲食店からは熊本の酒の会を開くから、ラベルがはがれたものでも何でも何でも買いたいとの話があった。「1カ月でも2カ月でも待つよ」と温かい声に救われた。「交通機関も不便なゴールデンウィークの最中、日本中や海外からも多くのボランティアが駆けつけ支援いただいた。炊き出しや支援物資、慰問ライブも続いた」。

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 川尻本蔵の「本蔵」は四季醸造蔵の先駆け。鉄筋コンクリート造りで木造土蔵ほどの損壊はなく、清酒製造場を失うことは免れた。しかし搾った酒や瓶詰商品の貯蔵場をいかに確保していくかが課題だった。

 今年9月19日「平成大蔵(へいせいおおぐら)」の起工式があった。約160坪の敷地は全壊した川尻本蔵の貯蔵庫「大蔵」があった更地。土壁だったものを鉄骨造りに改め貯蔵庫とする。総工費は約1億5千万円。グループ補助金活用で、国と県が約1億1千万円を拠出、残り約4千万円を自己資金で賄う予定だ。完成は来年以降。

 清酒はもとより赤酒醪の貯蔵にも使うことが出来る。そのことで赤酒の製造供給はより安定する。赤酒事業が完全復旧すれば、係るエネルギーを清酒に振り向けることも出来る。

 今後も被災した約70棟の建物について、復旧後の用途活用を視野に取捨選択が必要だ。

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 今年10月7日、全国日本酒銘醸蔵元と熊本県内日本酒・焼酎蔵元結集のイベント「呑んで復興~火の国くまもとの酒×全国の銘酒~被災地に明るい笑顔を」(「和醸和楽」と熊本市の共催)が熊本城であった。くまもと復興イベント実行委員会・県内日本酒蔵元代表を務めた吉村さんは「乗り越えながら絆が生まれてきている。悲しいことだったが気づかされることが多い。商売の垣根を越え全国の銘醸蔵と酒屋さんが集まっていただいた。そんな業界にいられることに感謝し、酒造りにまい進していきたい。返していかねばならない」と語った。

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 熊本の清酒の歴史が始まるのは明治。「当時の県内の酒造業界は、西南戦争による県外清酒の流入により、赤酒の歴史から清酒へと苦難の転換期を迎えていた。江戸時代は赤酒の製造しか許されず長年の赤酒製造に馴染んできた技術では、良質の清酒を造ることは事実不可能であった」(日本醸造協会誌・平成元年12月号、「香露」醸造元・熊本県酒造研究所<熊本市中央区島崎>萱島昭二氏=故人)。

 明治の初め、ほとんどが赤酒(灰持ち酒)だった時代、火入れ殺菌で保存性を高める清酒(火持ち酒)を造ったのは、熊本県に現存する蔵元としては同社が一番早かった。創業者吉村太八氏、二代目彦太郎氏へと清酒醸造の情熱が連綿と継がれる。1887(明治20)年には兵庫県の丹波杜氏を招き指導を仰いだ。そして1909(明治42)年、瑞鷹製造場の一部に酒造工場を新設提供し野白金一氏を迎え「熊本県酒造研究所」が設立された。大正7年、現在地で正式発足。

 “酒の神様”と称される同氏は、元は熊本税務監督局(現熊本国税局)鑑定部長。野に下り大改革をけん引した。熊本酵母(協会9号酵母)の培養、二重桶方式(サーマルタンクの元)、野白式天窓、袋吊り法など吟醸酒造りの礎を築いた。全国新酒鑑評会「金賞」受賞の方程式となったYK35のKは熊本酵母のこと。先述萱島氏が示した発酵管理の目安“B曲線”は流行語になった。

 瑞鷹は昭和5年、全国酒類品評会において「出品3900余点中第1位を以て優等賞を受賞。さらに3回連続優等賞受賞の実績により名誉大賞を授けられた」。

 創業は1867年(慶応3年)。今年誕生から150年を迎えた。

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 熊本県は日本酒と焼酎が共存する美酒のメッカ。県下の蔵元が加盟する熊本県酒造組合連合会は「熊本酒造組合」(13者=清酒10、単式蒸留焼酎3)と「球磨焼酎酒造組合」(単式蒸留焼酎28者)で構成。地震では熊本組合の5社が大きな被害に遭った。

 震災復興のためのグループ補助金「熊本県中小企業等グループ施設等復旧整備補助事業」は被災被害があった施設と設備を対象に、復旧事業費の4分の3(国1/2、県1/4)が補助金拠出されるもの。昨年8月「熊本酒造組合復興グループ」(11社、代表=瑞鷹㈱)の事業計画(事業費12億2711万円、補助金申請予定額9億2031万円)が認定されている。復旧整備等の完了予定日は平成31年3月31日。